◎透き通るような美しい心を目指す。桑のお知らせ。三つのヌの木。ここもいかぬ、あれもいかぬ、と改まれということ。
%1親先生ぐらぐらしていた歯が抜けて思われたこと。


昭和四十三年二月十日 朝の御理解
X御神訓 「やれ痛やという心で ありがたし 今みかげをという心になれよ。」


 信心の心得「やれ痛やという心でありがたし今みかげをという心になれよ」と言われるから、今みかげをという心になれよ。色々な難儀な事がございます。例えば病気をして、頭が痛いとか、腹が痛いとか。又は金が足りないとか、様々な難儀。これはいわゆる、やれ痛やと。

 ですから、そこんところを今迄私共は、めぐりのお取払いを頂いておるのであるから、ね。痛い事は痛いんだけども、苦しいのは苦しいんだけれども。こうしてめぐりのお取払いを頂いておるのであるから、有難いという心にならにゃいけんという風に申してまいりました。ね。

 痛い、けどもそれはめぐりのお取払い、だから有難い。そうはなかなか実感として有難いものになってこないですね。やっぱり痛い事は痛いもんじゃからという事になる。苦しい事は苦しい。ね。借金の取り立てをされる、本当にそれこそ貧より辛いものはないという様に辛い思いをする。そういう時に、はあ今こそめぐりのお取払いを頂いて有難うございますという様に、そのなかなか実感として頂けんのですねえ。特に苦しい事は苦しいという事になる。

 やれ痛やという心で今みかげを、今おかげを頂いておるんだと、今こそおかげを頂いておるんだと思うて有難いと思えという事はなかなか難しい。ね。そこでその痛い事がありましても、難儀な事がありましても、ね。有難く思わせて頂けれる、なんというですかね、手立てとでも申しましょうか、がなされると、なる程苦しい事がまた有難い事だと分かって来るのです。

 今朝私、御神前に出らして頂きましたら、頂きます事がZ『あの蚕さんがね、桑をばりばりと食べておるところ。それが段々食い上がってまいりましてね。もう桑の葉を食べない様になって、そして繭を吐いて、そして自分はその中に納まって仕舞う。いわゆる繭に成る。』その繭があの絹糸になったり、絹の着物になったりして、とても化学繊維なんかでは及びも付かない様な素晴らしい物になる。

 これはもう確かに、そうですね、私今あのこの下着にですね。以前は四十いくつだったんですけども、恐れ多い事で真綿で作って貰っているんです。ちょっと〈汚れてるけれども〉、もう本当に何か背中にカイロでも入れとる様に暖かいですね真綿は。ね。そういうその暖かい物をですね。

 それこそ後の後までも残しておけれると言うこと。私共もね、蚕さんの様な生き方。ね。生き方に成らなければならんのです。それにはやはりあの桑の葉を、いわば食料としていかなければならん。桑という字はね、カタカナのヌという字を三つ書いて下に木が書いてあるでしょう。私はそれから考えた。これはどういう神様の〈思し召しだろうか〉。

 皆が良いお話を頂きますと心が浄よまると申します。こう申します。良いお話を頂いたからだけ浄まるという事はないんだ。良いお話を頂きますとなる程、合点する事がある。本当にこういう生きたかでは、こういうあり方では駄目だとか。又は、ははあ、ああいう幸せな有難い生き方があるんだという風に分からして貰うから心が浄まるんだ。ね。

 それが皆さん心の糧と申します。ね。心の糧。心の糧を頂いてまいります事から、心が成長するのですね。人間は食べ物を食べて肉体には栄養食物を与えます。けどもこの食物を頂くという事は人間だけじゃありませんものね。牛でも馬でも頂いております。牛には牛の食べ物がちゃんと与えてある。ね。ただ他の動物に与えられていないのは心に糧をいかに与えても心の糧にしきらないという所に人間と動物の違いがあるのです。

 他に動物との違い。そうでしょう、ね。牛にどんなに言うて聞かせてもですよ、本当にはあ私が悪かったと言うて改まりの情を見せる事がないでしょうが。ね。これだけ可愛がっておるのに、それこそ飼犬に手を噛まれる様な事になりましょうが。ね。それを犬畜生という様に申します。

 ですから、それはそれが出来ないから畜生なんだ。人間でもね、仏教の言葉を借りると、そういう貪欲な我情な我欲な生活をした人は必ず畜生道に落ちなければならない。仏教ではそうですよ。ね。いつも喧嘩ばっかりして争いごとの好きな人は、結局修羅道です。という様にですね。

 私共が人間としてこの世に生を受けて来たと言うこと、それは他の動物との違いそこん所を分からして貰い。成程良いお話を頂けば心暖まる。心が強まる。成程そういう生き方が、そういう有難い幸せな生き方があったのかと気付かして貰える所に、私は人間の値打ちがあるんだとこう思う。ね。

 それになんぞや人間ただ拝んでから、おかげ下さいおかげ下さいという様な信心がいかに、いうならば本当の信心がないかという事が分かりますですね。信心にはもう絶対、この教義というものがある信心でなからねば本当の信心じゃないと言われておりますがね。教義というのはみ教えなんだ。幸せの生き方の出来れる道なんだ。ね。

 それをまあ金光教では教典とこう申します。み教え。そのみ教えを頂かして貰う。ところがあまりにも、見易い様で難しい。ね。教祖の百八十何ヶ条のみ教えをもう暗記すれば、それで良いかという訳にはいかんのです。あるいは心が浄まるという事もないのです。けれどもそれを本当に体験して、その体験した人がそれを噛み砕いてそれを理解づけて下さると、私共の様な頭の悪い者でも成程、成程と分かって来るんです。それが心の糧なのです。ね。

 そこで、んなら成程成程と分かったり、いうなら浄まったり致しましてもです、ね。それが血にも肉にもなっていないとするならば、それは糧の様であって糧になっていないという事が分かるでしょう。ね。そこにあのひとつ桑の葉を頂かんからだと言う事になる。桑という字はね。ヌという字を三つ書く。それはどういう事かと言うとですね。

 はああげな事をしてはいかん。ね。これじゃあいかん。このものなのです。お話を頂かして貰いよってです。これじゃ自分達がおかげ頂かれんはずだという様な事が分かるはずだから、こういう事はいかぬと分からして貰わにゃあいかん。ね。その下にヌの下に、木が書いてある。木は心なのだ。ね。それはもう本当に厳密に申しますとです。あれもいかんこれもいかんという事ばっかりでございますけれども。

 せめて自分の心の中に三つぐらいはです。もう、いつも、絶えず心の中に、自分なこげんしちゃあいかん。こげな事を言うちゃあいかん。信心さして頂くならこげなこっちゃあいかんという。せめて三つぐらいは自分の心の中に頂いておる事が心の糧になるのです。それは蚕が桑を食べて、ね。蚕が成長して行く為に桑の葉でなければならない様に、私共の人間、肉体には食物があるけれども。心にはみ教えという糧がある。

 有難いというお話が心の糧なのだ。それを例えば食べておるだけでです。ひとつも血に肉になっていないとするならばです。改まらないかん。あれはいかんこれはいかん。こんなこっちゃおかげが頂けんというところをです。極めていつも心の中に、それを心の糧とし続けていっていない所に心が成長しない。心の上に血も肉も付いてこないのです。

 ですからね、なかなかそれがね、一遍にね、なかなか取れるという事はありませんけれども。いつも思い続け、それを精進し続けて行くところに、いやそれがいつの間にか糧になって来るんですよ。私は今日のそのお知らせを頂き、そんな風に考えた。

 %1一週間ばっかり、もう十日ばかりなりましょうか。朝の御祈念中に私、奥から二本目の歯が欠けた。もうそれこそもう痛いもなからにゃあ痒いもない、血もでません。御祈念中に何げなしにちょっと舌でちょっとからげた、今迄いらいらしょった。なかなか奥歯ですから、御飯を頂くでも、何を頂くでも頂きにくかった。いわゆるままになりにくかった。

 %1お互いがね。おかげを頂きたいおかげを頂きたい。どうして自分のままにならんだろうか。どうして自分の思う様なおかげにならんだろうか。ままにならんということ。ね。成程これではままにならんはずだと言うものを分からして頂くという事が、ね。心の糧だとこう申します。ね。

 %1それこそ皆さん奥歯のいらいらしておる様な人はないでしょうか。ままになりにくいのです。こげんいらいらしよったっちゃあ、こげんとがあったんではですね。ですからね、それを取り除かせて頂こうとする精進がいつも必要なんです。というて無理に血の出るごとして引き抜いたっちゃあ、なかなか出来るこっちゃあない。信心の心の上の改まりというのは、そんなに強引に出来るもんじゃあない。ね。

 %1これがあなたのガンですよ。これがあなたのおかげの受けなれない元ですよ。と言った様なものを。そうですもんねと分かってもなかなか改まれるものじゃあないです。もう本当に身に染み込んできとりますからね。けれどもお話も頂いておると、ね。心が浄まる。心が有難うなる。成程これではおかげが頂かれんよというそれが、段々はっきり分かってくる。

 %1もういわば、いらいらし出したんですよ。ね。これではもうままにならんはずだ。これではおかげ頂けないはずだという事を分からして貰った。ね。私はその歯を愕然としながら取りました。血もなんも出ません、痛うも痒うもない。だから、さっそく塵紙を出してですね。たもとへこう入れさして頂いたんですけれども。もう後からそれを見て驚いた。

 %1もう兎に角小さい、私の奥歯はもう小さい歯でしたけども、歯だけはもう三本根があるですね。反対すると鬼んごとしとる。ね。もう根がこんなに、もう兎に角鋭いような、もう根がですね。根っ子が肉の中埋まっておる。そげんして歯が出来ておる。成程ぐらつくかんはずだと思います。それがぐらつき出してからです、ね。それを取り除かして頂く事によって楽に、ままになるところのおかげが受けられる。

 %1噛もうと思うても噛めんのですね。そういういらいらする事がありますと、ね。ですから、それがですね。いつの間にかですね。それにいっつもいらいらしよりますとこう手でこう押さえたり、又は舌でこうこうやったりするでしょうが皆さん。私はそうします。そうすっといつの間にか取れるんですね。痛い思いをせんで取れる。ころっと取れる様にですね。

 私共がここを改まらなければ、おかげを頂けんという事をみ教えによって分からして貰う。ね。心の糧によって、心のそれが糧になるのです。み教えが、ね。ですからね、あら、もうこれは改まれんとか。人間じゃけんこれ位は当たり前というたら、もう全然精進しない訳ですね。そげんなってくると、いうならば普通の動物も同し事になる訳です。

 人間の違いはです。ね。そこんところが分かる所が人間の値打ちなのですから、ね。私共が例えば、蚕さんが桑をばりばりばりばりその本当に、どうしてあんなにいつもかつも食べとかんなんじゃあろうか、というごと夜も昼もなしにばりばりばりばり音がする様に食べておる。本当に卑しい事なんだけれども。それがいつの間にか、ね。もう食い上がってしもうとる。

 透き通る様になってしもうとる蚕さんが。私共も本当に卑しい卑しい、ね。いわばその生活から段々信心をさして頂いて、わが心が神に向こうて行くに従ってです。自分の心が透き通る様にある。いわゆる美しゅうなる。一生懸命の修行をする、ね。その美しゅうなる事が楽しい。

 昨日善導寺の久保山の宅祭でございましたが、あちらの茶の間に誰の書いたのか知りませんけれども。丸額に入っておる。おそらくあの山登りの好きな人が書いたのでしょう。ね。山の頂上に出れば心が美しい、美しくなるという様な事が書いてある。確かにあの山の一生懸命に二の段なら二の段に登って、あの山頂でですね。しかも素晴らしい景色をこう見下ろさせて貰う時にですね。汚い心なんか起こされません。ね。

 もう本当に美しい心。私共も一生懸命信心修行をさせて頂きよります。ね。その修行がやはり高い山であれば高い山である程に、その修行が大きければ大きい程です。心はやはり美しくなります。そういう私共が限りなく美しい心を目指して信心さして貰う。ね。それが心の糧になる様なみ教えを頂かして貰うから、美しくなる。心に糧を、はあ今日のお話は有難いお話であっただけでは糧にならん。それが血に肉にならなければ糧にはならん。

 そこには、はあこういう事ではおかげは受けられぬというせめて三つぐらい。桑の葉の桑という字ぐらいにですね。絶えず自分の心の中に、それは丁度、私がいらいらしておる歯をいつも押さえたり、舌でこうしたりするようにしておる時、いつの間にかもうその頑固であった。それこそ根が三つも入っておる。こげんとは限りがないと思う様なものがです。

 とてもこれなら自分のこの心というものがです。この汚い心がです。とても取れる筈はなかろう。もう焼き付いてしもうとるもんじゃあけんでと諦めたら、それまでなんです。ね。それに取り組んで、私共が日々。これがあっちゃあままにならん。これがあっちゃあおかげ頂かれん、と分からして頂いたら。それをその日から、さっそくそれに取り組まして貰うて、改まる事に精進し続けさして頂きよるとです。

 それが糧になって段々育って行くのであって。それが山登りであって。山頂に着いた時に心が美しうなった様にです。ね。それがいつの間かです。それがぽろっと取れるおかげが頂かれると言う事。ね。心掛け続けなければいけないという事。そこで今、信心の心得の一ヶ条を読ませて頂きました様に、ね。「やれ痛や、今みかげをという心になれよ」。

 痛い事がある。難儀を感じる事がある。そこでその、この難儀の基がどこから来ておるのかという事を分からして貰うのです。み教えによって、ね。ですから、そこが分からして貰うから有難いのですよ。はあこの痛い事によって、こういうおかげの受けられる基が分かった。だから有難いのですよ。だから、やれ痛や、今有難しという心が頂けるのですよ。ね。

 やれ痛や、今みかげをという心になれよ。それを今迄はです、ね。はあ痛い、けれどもこげんしてめぐりのお取払いを頂いとるとじゃろう。じゃろうぐらいでその、有難いと思わんなんけん、なかなか難しい。まあめぐりのお取払いじゃろうと思います。神様にお礼を申し上げて下さいと言いよるけれども。心の底では有難いと思うちょらん。これでは神様に通うはずはない。

 難儀の基を分からして貰う。その基を尋ねる、ね。はあここにこういう心では、おかげが頂かれぬという意味が分かって来る。これをしちゃあいかん。こういう心じゃあいかんという、そのぬに取り組まさして貰う事を分からして貰うから有難い。難儀を感ずるたんびに、そのぬがある。ね。

 桑の葉を、いわば常食にしてですね。私共は絶えず、改まるという事を自分の心に掛け続けさして頂いて、これではおかげが受けられんという事を分からして貰って精進する。信心しておりましてもね。とてもそうね。これに取り組んで見たばってん諦めちゃあならんという事。改めようと思うばってん。改められないじゃあいかんという事。

 それを倦まず弛まずそれに取り組んで行きよると、いつの間にかです。それがいらいら≪しない≫様になり、それがいつの間にか、あらっという間に取れる様なおかげが受けられるのです。ね。だからそれ迄は苦しいです。自分のその心にね、取り組むという事はなかなか、もう本当にもう自分ながら僻々するごたる。それを知らない迄は当たり前のごと思うとる。人間じゃあけんと、人間じゃあけんそげな事当たり前と。

 そげなことを言うたら他の畜生も同じ事になるという事なんだ。生きとるとじゃあけん。生きとるもんじゃから、こん位の事当たり前というたら、犬でも猫でも生きとる事は同し事なのですから。それを当たり前と放任しとったら、犬や猫も同し事だという事。結局畜生道に落ちなければならないという事なんだ。ね。

 人間の違いはそれを本当に分からして貰うて、本気でそれに反省したり、取り組んだり改めたりしていけるという事が人間の値打ちなんだから。ね。これを改めな、なかなか改める事が出来ん。また出た。こげな事じゃあ御無礼になる。こげな事じゃあ神様が喜びなさらん。それでもやはり、それをすがって、神様にすがってそこのところを改め様と、精進努力するところが人間の値打ち。それを出来る事が。

 それも倦まず弛まず、もう途中で止める様な事なしに、それを続けて行くうちにそのガンとも思われよった頑固なものが取り除かれる。それは三本のこげな根のあるね、歯がやはりいらいらしてきだすと、段々それが、いわゆるぽろっと取れる様なもんです。ね。そこにね、神様のおかげ。ね。私はその歯を紙に詰め取っております。それを私は本当にお礼を申しました。

 今迄この歯のおかげでままになって来たんですからね。ように私共がですね、そのめぐりがですね。めぐりというか、その難儀というか。そのいけぬというそのいけぬ事がです。取り除かれた後にはです。ね。それが私を育ててくれた。それが信心を本当に分からして頂いたというて、その事に対してお礼が言えれる様になる。ね。改めねばならんという。

 そのこういうもう僻々する様なその心に対して、お礼が言えれる様になる。それが難しい。それが素晴らしいでしょう。ね。神様のおかげでやはり取り除かして頂く。ね。犬やら猫やらがね、体にそのダニなんかが食い込んでおる。それが痛いんですね、痒いんです。それは丁度私共が改まらなればならん所を発見して、自分ではどうしても取り除く事が出来ない。

 それを神様におすがりして、これを取り除かなければ、自分は楽になれないのだとおかげが頂けんのだと分からして頂く所から、本気で自分で取ろうとするけども。なかなか自分では取れない。そこで犬や猫やらが自分の体に食い込んでおる、そのダニの、ダニならダニのですね、その痛さ痒いさに、それこそだんごろりんしてから苦しむのです。ね。

 犬やら猫は自分自身ではどうにも出来ないけれども。それを見た人間がです。ね。これはだんごろりんしよるけん何かおるとじゃなかやろかというて。はあここにダニがこうして付いとったというて取り除いてくれる。もう嘘の様に取り除いてくれる。ここは苦しみ抜いとらなければ目立んのです。

 私共でもそうなんです。ね。こういうガンがあっちゃあ、こういう様な汚いものがあっちゃあ。ままにはならんのだ。本当の幸せにはなれんのだ。極楽行きが出来んのだ。気づかせて頂いたら、それに本気で取り組んで精進しておる姿。それを神様が見逃したもうはずがない。神様が取り除いて下さる時期が必ず来る。これに精進さえしておけば、ね。

 そこに例えば、蚕さんが段々ばりばり食うておったのが食い上がってしもうて、そして透き通る様になるでしょう。私共の心がいよいよ美しくなる。頂上になればなる程、心が美しくなって行く様にです。透き通る様になって、丁度蚕が繭を張る様にです、ね。自分の世界というかね。その中に納まって、しかもそれがいついつ迄も、ね。

 これが絹糸だこれが絹糸だというものを残して行く事が出来る。信心さして頂いて徳を受けて、あの世にも持って行き、この世にも残しておけるというのは。そういう精進の、いうならば結果がそういう事になるのです。この汚い心がです。ね。段々限りなく美しくならして頂こうとする精進から、段々自分の事が透き通る様になって行くという事の楽しみ。ね。

 わが心が神に向こうて行くことを楽しみに信心さして頂くところのおかげを頂かなければならんのでございます。今日は今頂きましたね。蚕さんの事を一遍思うて見て、その様なあり方に。いわば桑を食べて蚕さんが育つ。その桑という字を、私は考えて見た。ヌという字が三つ書いてあって、木が書いてある。それを蚕さんが生きて行く糧にしておる様に、ね。人間の生きて行く心の糧というものは、ね。

 せめてこのヌを三つぐらい、はあこげな事をしちゃあいかん。こげな事を言うちゃあいかん。そのヌを三つぐらいはいつも自分の心に頂き続けてです。蚕さんが桑を糧にする様に、私共もその桑を糧にして行くところのです。ね。有難いみ教えを頂かして貰うては、はあ浄まった。ね。

 本当に有難かったというだけじゃあない。それが本当に心の糧になって血に肉になって、それが段々透き通る様な私共にならせて頂くという事を楽しみにです、して行くところに徳が身に付いていく。徳が受けられる事になるのですね。どうぞ。